「本は出会いだ」と、いつか、誰かから聞いた。
つい三日ほど前にタイから帰国しました。
帰国後翌日に引っ越し。
主人は沖縄へ。(こちら)
私は祖父の家にしばらく居候します。
祖父の家には、大学4年間住んだことがあり、
そりゃもう、慣れた場所なんですが。
そのせいで、当時(もぅなん年前だろう…フフフ…)
私が使っていた服やら本やら、
カラーボックス3個分くらいドーンと鎮座しているわけです。
我が家(結婚後)は、引っ越しが多いこともあり、
「使っていないものは処分する(略して断捨離)」がブームなので
いそいそと当時の自分のものを処分する作業を始めました時の話です。
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本の精査中に気付く…。あれ?もうワクワクしない。。。
置きっ放しの本(もはや何が置いてあったかすら覚えていない)は
容赦なく、古本屋か、処分。
その代わりに、引っ越しの際に連れてきた本を空いたスペースに収めながら、
再度、連れてきた本の精査もしていたのですが…
「あれ?変だな?あんまり…もうワクワクしない…?」
そうなんです。
当時(学生時代や、社会人)あんなにワクワクしながら読んでいたその本。
今、読んでみても、なんかピンとこない。
むしろそのピンとこない本を読む時間は、違う新しい本を読む時間に当てたい。とまで考えるしまつ。
過去の思い出に浸るためだけの本が、間違いなくある。
過去には、間違いなくその本にハマってハマって読みまくってた時期があったんです。もしくは、深い思い出とリンクしている本だったんです。
でも、今、過去とは大きく環境が変わった今。
あんなに愛したその本も、もはやそこまで心に響かないのは。なんたること。
少しせつない気持ちになる私です。
自分にとって、その本の魅力は、今(もしくはこの先)の感動なのか、それとも昔の思い出に浸るためなのか。
私がその本を「残す」と判断する瞬間。
それは、今(もしくはこの先)読んで得られる感動のために「残す」と思ったのか。
それとも、過去(あの時)本当にワクワクしながらよんだなぁという思い出のために「残す」と思ったのか。
私にとって、服より判断が難しいのが「本」です。
客観的に見なければ、なぜ「残す」と判断したのかが、一瞬にしてわからなくなってしまう。
時代も、自分の環境も変わる。自分がその本に求めるものも変わる。
せつないですが、
あんなに愛した本も、思い出深い本も、自分が変われば、その本に対して求めるものは変わります。
昔は読めた本でも、今では読めない事はあるのです。
また、もう一度、その本を求める時期が出てくるかもしれませんが、
それは、もう何年先の事か分からなければ、本当にそんな時期が来る保証もありません。
過去の思い出に浸るためだけの「過去の思い出本」ばかりになってしまってはナンセンスです。
今を生きていない。
昔の思い出をモノで残すようなことをしだすと、それこそモノだらけになってしまいます。
一旦自分の元から手放すという判断も必要かもしれません。
「本は出会いだ」と、いつか、誰かから聞いた。
いつか、誰かに言われました。
「本は出会いだ」と。
「あっ!」と思っても、それを手にしそびれたら、
もう出会うチャンスはなくかもしれないよ。と。
高校の頃、国語の先生に言われました。
「今しか読めない本があるよ。」
「その時しか感じられない事があるよ。」と。
聞いた時は、正直ピンとこなかった。
「そんな事があるのかなぁ?」
それくらい。
随分昔に、誰かに言われた事。国語の先生に言われた事。
今頃、やっと、腹におちた。
昔、こんなに好きだった本に、感動できなくなった自分に、
一抹の切なさを感じつつ。
一期一会であるからこそ、
常々新たな出会いを求め続けたいものです。
「過去の思い出本」に浸って、過去を生きるんじゃなくて
今を生きる本ための本を求め続けたいものです。
なんだか。話がブレブレましたが。
そんなことを思った今日。